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人生朝露

人生朝露

『荊楚歳時記』の正月。

春運。
北東アジアの民族大移動が太陽暦と太陰暦の双方で終わりました。

季節は春、ということで、今日は『荊楚歳時記(けいそさいじき)』という書物から。
『荊楚歳時記』は、魏晋南北朝時代にあたる6世紀頃の、揚子江中流域の年中行事を記録したものです。著者は梁の宗懍(そうりん)という人物。彼の故郷である「荊」・「楚」と呼ばれる地域(現在の湖北省・湖南省付近、三国志では江陵と呼んでいた辺り)の風俗に焦点をあてたもので、ローカルで庶民的な生活の記録です。「歳時記(さいじき)」という表現も、この『荊楚歳時記』こそが嚆矢でして、奈良時代に伝来して以降、日本文化へ非常に大きな影響を与えました。

『荊楚歳時記』。
《正月一日,是三元之日也,謂之端月。
鷄鳴而起。
先於庭前爆竹,以辟山臊惡鬼。帖畫雞,或斵鏤五采及土鷄于戶上。造桃板著戶,謂之仙木。繪二神貼戶左右,左神荼,右鬱壘,俗謂之門神。
於是長幼悉正衣冠,以次拜賀,進椒柏酒,飲桃湯,進屠蘇酒,膠牙餳,下五辛盤,進敷于散,服却鬼丸,各進一雞子。凡飲酒次第從小起。梁有天下,不食葷,荊自此不復食雞子,以從常則。
熬麻子、大豆,兼糖散之。
又以錢貫繫杖脚,廻以投糞掃上,云「令如願」。
正月七日為人日,以七種菜為羹,翦綵為人,或鏤金箔為人,以貼屏風,亦戴之以頭鬢,亦造華勝以相遺,登高賦詩。
立春之日,悉翦綵為鷰以戴之,帖「宜春」二字。
立春日,為「施鈎」之戲,以緶作篾纜相罥,綿亘數里,鳴鼓牽之。
又為打毬鞦韆之戲。
正月十五日,作豆糜,加油膏其上,以祠門戶。
其夕,迎紫姑,以卜將來蠶桑,并占衆事。
正月夜,多鬼鳥度,家家槌床打戶,捩狗耳,滅燈燭以禳之。
正月未日夜,蘆苣火照井廁中,則百鬼走。》(『荊楚歳時記』より)
→正月一日とは、三元の日である。いわゆる端月のこと。
鶏が鳴いて目覚める。
まず、庭の前で爆竹を鳴らし、山の悪鬼を退ける。画雞を貼り、あるいは五采をちらして土鷄を戸の上に置く。また桃板を造って戸に掲げる。これを仙木という。二神の絵は戸の左右に貼る。左が神荼(しんと)、右が鬱壘(うつるい)である。これが俗に言う門神のことである。
ここで、老いも若きも皆衣冠を正し、順に新年の賀を拝する。椒柏酒を勧めて、桃湯を飲み、屠蘇酒を勧めて、さらに膠牙湯、五辛盤を下し、敷于散を勧めて、却鬼丸を服し、各々一つの卵を勧める。おおよそ年少の者から順に始める。梁の天下の頃には葷(にら)を食することはなく、荊州では、是から再び卵を食さず、常則に従う。
麻子、大豆を煎り、糖とからめて之を散じる。
また、銭を束ねたものを杖脚に繋いで回し、糞土の上に投げて「令如願(ねがうとおりになれ)」と言う。
正月七日は「人日(じんじつ)」とする。七種類の野菜で羹(あつもの)を作る。彩の布を切って人形としたり、あるいは金箔を飾って人形とし、屏風に貼り付けたり、髪飾りとして頭に載せたりする。また、華勝を作って首飾りとして互いに送り合う。また、高所に登って詩を賦す。
立春の日、みな彩の布をを切って燕を作って髪飾りとし、「宜春」の二字を門に貼る。
立春の日には「施鈎之戲」を行う。縄を編んで篾纜(べつらん)を作り數里離れた所から太鼓を鳴らしこれを引き合う。
また、「打毬(蹴鞠の一種か?)」や「鞦韆(ブランコ)」の戯を行う。
正月十五日、豆糜(とうび)を作り、油膏を加えて、これで門戸を飾る。
その日の夕方、紫姑を迎えてその年の蚕の成長やその他もろもろの事柄を占う。
正月の夜、多くの鬼鳥が渡るため、家々では槌で床や戸を叩いたり、犬の耳をねじったり、灯火を消してこれを避ける。
正月未日の夜、蘆苣(葦の束)を燃やして廁の中を照らすと、百鬼はたちまち逃げ出す。(平凡社刊 東洋文庫『荊楚歳時記』を参照)

参照:維基文庫 自由的図書館 荊楚歳時記
https://zh.wikisource.org/wiki/%E8%8D%8A%E6%A5%9A%E6%AD%B2%E6%99%82%E8%A8%98
『荊楚歳時記』の1月の部分から抜粋しました。1500年ほど前の長江中流域の年中行事の記録の中に、現代日本においても続いている行事が見られると思います。

爆竹。
このうち、「先於庭前爆竹,以辟山臊惡鬼(庭で爆竹を鳴らして、山の悪鬼を退ける)」という部分。現在でも大陸ではよく見られる風習ですが、この当時の「爆竹」というのは、火薬を使用しているものではなく、まさに「爆ぜる竹」。竹を火にくべて爆発させ、その音と煙で「鬼」を追い払うものだと思われます。この時代には火薬はまだ発明されていません。

参照:道教と火の薬。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201504150000/

『和漢三才図会』より 屠蘇酒。
また、「屠蘇(とそ)」の風習についても書かれています。これも「鬼」にまつわる記述が多いものです。

参照:お屠蘇と仙薬。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201501050000/

『荊楚歳時記』には、正月の風習について以下のような註釈があります。
『荊楚歳時記』。
《按:莊周云︰「有掛雞于戶,懸葦索於其上,插桃符於旁,百鬼畏之。」又魏時,人問議郎董員力云︰「今正、臘旦,門前作烟火,桃神,絞索松柏,殺雞著門戶,逐疫,禮歟?」員力答曰︰「禮。十二月索室逐疫,釁門戶,磔鷄。漢火行,故作助行氣。桃,鬼所惡,畫作人首,可以有所收縛,不死之祥。」又桃者五行之精,能制百怪,謂之仙木。《括地圖》曰︰「桃都山有大桃樹,盤屈三千里,上有金雞,日照則鳴。下有二神,一名鬱,一名壘,并執葦索,以伺不祥之鬼,得則殺之。」即無神荼之名。應劭《風俗通》曰︰「《黃帝書》稱︰『上古之時,有神荼、壘鬱兄弟二人,住度朔山上桃樹下,簡百鬼。鬼妄搰人,援以葦索,執以食虎。』于是縣官以臘除夕飾桃人,垂葦索,畫虎于門,效前事也。」》(同上)
→莊周にいう「戸口に鳥を掲げる家があり、その上に葦をかけ、傍らに桃符を挿すと百鬼はこれを畏れる」と。また、魏の時に議郎の董員力に人が問いて「今、年明けの朝、門前に烟火を焚き,桃神を祀り,葦縄で松柏を絞め、鶏を殺して門戸に置くのは疫を逐うのは禮によるのでしょうか?」というに、員力が答えて曰く「禮では十二月索室にて疫を逐うには,門戸を血塗り、鶏を磔にし、漢火を行うことで行氣を助ける。桃は鬼の悪むところ。人首を絵に描いて鬼を收縛する所もあるという。これは不死の祥なのだそうだ。また桃は五行の精であり、百怪を制するという仙木である。」『括地図』によると、「桃都山に大桃樹があり三千里の枝を伸ばしているという,上には金雞がおり、日に向かって鳴く。下には二神がおり、一方を鬱、一方を壘という。葦の縄を持ち、不祥の鬼をうかがい捕まえて鬼を殺す。」ともある。まだこの頃には神荼の名はない。應劭の『風俗通』には「『黃帝書』によると「上古の時、神荼、壘鬱の兄弟二人の兄弟がおり、度朔山の上の桃樹の下にて百鬼を観察している。鬼が人に悪事を働くようであれば葦の縄で捕らえて虎に食わせる。」そこで、こういった風習に倣って縣官は年の暮れに桃人を飾り、葦索を垂らし、虎を描いた画を飾る。」とある。

Zhuangzi
注釈において『荘子』からの引用として、「有掛雞于戶,懸葦索於其上,插桃符於旁,百鬼畏之。(戸口に鳥を掲げる家があり、その上に葦をかけ、傍らに桃符を挿すと百鬼はこれを畏れる)」という記述があるとされていますが、これは現在の『荘子』に掲載されていません。同じく7世紀の『芸文類聚』(げいもんるいじゅう)という書物でも『荘子』の記述として「插桃枝於戶,連灰其下,童子入不畏,而鬼畏之,是鬼智不如童子也。(桃の枝を戸に差し、その下に灰を撒く。童子がこれを畏れることはないが、鬼はこれを畏れる。鬼の智が童子におよばないところである。)」とあるとしています。「桃」と「鬼」とを関連付けた記録としては最古級のものですが、現在では孫引きでしかお目にかかれない、『荘子』の逸文です。

神荼 鬱塁。
『荊楚歳時記』においても、神荼(しんと)と鬱壘(うつるい)という、鬼を召し捕らえる二神(門神)について書いてあります。他の書物では鬼門にもかかわる部分です。キーワードとして「桃」と「葦」が何度も出てきています。

参照:追儺と鬼、追儺と桃。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5171/
『古事記』で言うと、イザナギが黄泉国から葦原中国へと戻る途中の黄泉比良坂で「桃」を投げるシーンがあります。桃と鬼の関係はこの物語に相応しています。

牌坊。 
註釈の中の「門前作烟火,桃神,絞索松柏,殺雞著門戶,逐疫(門前に烟火を焚き,桃神を祀り,葦縄で松柏を絞め、鶏を殺して門戸に置くのは疫を逐う)」という部分。(余談ですが、門前で行う儀式のうち、順に爆竹、桃、葦の後にある松柏は現在で言うところの「門松」を連想させます。)その後に「釁門戶,磔鷄。(門戸を血塗りして、鳥を磔にする。)」とあります。門に鶏を掲げたり、門を赤く塗る風習の名残が、いわゆる「烏頭門(うとうもん)」であろうと思われます。道観や寺院に見られる「牌坊」「牌楼」と呼んだりする門の原型です。

春聯。
簡易版として、門前に赤い紙を貼る風習「春聯」は、現在でもよく見られると思います。いわゆる「福は内」ってヤツです。道教の中でも「風水」の方法論も、こういった風習の中に息づいているものです。

参照:維基百科 牌坊
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%89%8C%E5%9D%8A

『荊楚歳時記』。
《熬麻子、大豆,兼糖散之。
按《煉化篇》云「正月旦,吞雞子、赤豆各七枚,辟瘟氣。」又《肘後方》云「旦及七日,吞麻子、小豆各十七枚,消疾疫。」張仲景《方》云︰「歲有惡氣中人,不幸便死,取大豆十七枚、雞子、白麻子并酒吞之。」然麻豆之設,當起於此。今則熬之,未知所據也。》(同上)
→麻子仁(麻の実)と大豆を糖とからめて之を撒く。
註釈:『煉化篇』によると「元旦に卵と赤豆七枚を飲めば、瘟氣を退ける。」また『肘後方』には「元旦と七日には麻子仁と小豆を各十七枚飲めば、疫病は消える。」また張仲景の『方』は「毎年惡氣に当たり、運に恵まれないとすぐに死んでしまう。大豆を十七枚と卵、白い麻子と酒を合わせてこれを飲む。」とあり、麻や豆の説はまさにここから始まったのだろう。ただし、現在、なぜこれを「煎る」のかは分からない。

参照:道教と神農。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201411230000/

今日はこの辺で。


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